アフリカ古人類学者の父

トゥルカナ湖で人類の進化をしるうえで、とても重要な発見をしたリチャード・リーキーですが彼の父親も、古人類学者としてとても名高い学者ですが、アフリカの自然環境保護の組織の創設、そして古人類学と霊長類学の次の世代の研究者を育てた古人類学者です。そして、自然学者としてダーウィンの仮説『人類はアフリカで進化した』という説を証明しようと試みたことでも知られています。

ルイス・リーキー

まちがいなくルイス・リーキーは、アフリカでの人類の進化の解明に多大な貢献を果たしました。たくさんの功績がありますが、その中でも特に大きな功績は「アフリカにおける人類の進化」です。リーキー博士は1966年に「リーキー博士と人類の誕生」というテレビ番組にも出演していますが、人類学を専門に学ぶ人たちだけではなくお茶の間にまで広げたという点でも大きな功績だといえるでしょう。

リーキー博士の生涯
1903年8月7日にケニアに誕生していますが、それには両親の職業が関係しています。ルイス・リーキーの父ハリー・リーキーと母親のメアリー・バゼットは共にイギリスの出身ですが、現在はケニアとなっていますが誕生した当時は、イギリス領東アフリカの宣教師だったからです。

幼き少年時代

宣教師として拠点としていたのは、とても小さな小屋そしてテントのみという拠点でしぇいた。ルイス・リーキーが幼少の頃に住んでた家はかなり粗末な家で、土間がありますが、屋根は雨漏れする草葺きの屋根そして、ネズミと虫がたくさんいて、暖房設備はありませんでした。そんなテントの中に病院が設置されていましたが、病院から次第に拡大されていき粗末な家から始まったこの住まいは、のちにアフリカの女性のための女学校になりました。

父親のハリーは、聖書をキクユ語へ翻訳することに取り組んでいました。そしてルイス・リーキーの兄弟は、弟ダグラスそしてふたりの姉妹のグラディスとジュリアがいました。家に住んでいるのは、兄弟姉妹そして両親の他に、家庭教師や宣教師そして病院の看護婦が一緒に住んでいました。

アフリカの地に暮らすとう生活環境だったので、幼きルイス・リーキー少年はアフリカ人たちとともに遊んで、そして狩りを学びました。そしてルイス・リーキーの兄弟たちはみな、キクユ族の独特の足どりで歩くことを学び、そして現地の言葉も流暢に話せるようになりました。そして考古学者への一歩となることがありました。ルイスは敷地の端にキクユ式の小屋を建てることを許されました。そして小屋には、鳥の卵そして頭骨といった博物学のコレクションを集めるようになりました。

ルイス・リーキーは英国の先史時代の本を読むことで興味を持つようなりました。そしてナイロビの国立博物館初代館長のアーサー・ラブリッジに励まされて少しずつ道具を集めていきました。イギリスに一時帰国していますが、それは父親の病気です。1904年~1906年の2年間父親のハリー・リーキーの神経衰弱を癒すために、一家でイングランドのバークシャー州レディングにある母親の家で過ごしました。そして再びイギリスに帰国したのは、1911年~1913年までですが今度は母親が衰弱してしまったためにイングランドで暮らしていますが、その間に父のハリー・リーキーはイングランド南部の南海岸にあるボーンマスに家を買いました。

イギリスではルイス・リーキーをはじめとして、リーキー家の子供たちは小学校に通いました。リーキーの家族は第一次世界大戦中はアフリカにいて、第一次世界大戦が終わると再びイギリスのボーンマスに渡りました。そしてルイス・リーキ16歳の1919年に、イギリスの民間男子学校に通い始めました。そこの教師の一人が、ルイスに銀行家になっては?!とアドバイスしたこともあって、ルイスは父親の母校でもあるケンブリッジ大学に入学するための勉強を開始しています。

そしてケンブリッジ大学の入学試験でルイスは良い成績をおさめたため、19歳の1922年にケンブリッジ大学に入学していますが奨学金を得ての入学となりました。ルイスはケンブリッジ大学へ入学した当初は、父親のハリーと同じように、アフリカで宣教師になるつもりでした。ルイスの息子リチャード(後に"1470番頭蓋"を発見する)は、彼の父親ルイスについて、「父は20歳の前半に化石発掘を決めたいる。20歳前半のその時まで、父のルイスは父親と同じくケニヤでキリスト教宣教師になるつもりだった。」

ルイス・リーキーは父親と同じくキリスト教の宣教師になるつもりだったということもあって、キリスト教への熱意を友人たちに説くことそして風変わりな振る舞いで知られていました。そしてキリスト教の宣教師になるつもりでいながらも、進化論者でもありました。そして友人たちには将来の自然科学者たちがいました。

ルイスはアフリカへ

イギリスは第一次世界大戦の賠償として、1922年にドイツ領の東アフリカを獲得しました。東アフリカの地域では、ドイツ人がテンダグルと呼ばれる恐竜化石の豊富な土地を発見していました。ルイス・リーキーは家族の友人から、大英自然史博物館が化石の発掘隊を送りだそうとしていることを聞きます。もちろんルイス・リーキーは化石の発掘隊に応募して発掘隊の隊員として採用されました。

1924年にウィリアム・カトラーを隊長として一行はアフリカに出発しましたが、この大英自然史博物館の化石発掘隊の一行は、恐竜の完全な化石を発見することができませんでした。そして隊長のウィリアム・カトラーが9ヶ月後に病死すると再びルイス・リーキーはケンブリッジに呼び戻されました。ルイス・リーキーはこのアフリカ化石発掘隊を経験したことから、専攻を人類学に変えてアルフレッド・ハッドンの元で学び始めました。

そして2年後の1926年、に人類学と考古学で最高の成績をおさめてケンブリッジ大学を卒業しました。ケンブリッジ大学の在学中から、ルイス・リーキーはアフリカの考古学や古生物学について講義を行って、さらに執筆活動をしていたため、すでにルイス・リーキーは有名人になっていました。そして大学卒業後はアフリカで多くの遺物を採掘して、出土する人工品を体系的に研究します。

ルイス・リーキーが24歳の1927年に、エルメンテイタ湖近くのカンブル洞窟と呼ばれた発掘場所で、ふたりの女性の訪問を受けることになります。そのひとりが後の結婚する女性です。考古学を学んだことのある通称フリーダと呼ばれるヘンリエッタ・アバーンです。フリーダとルイスのふたりは夜通し話し合います。そしてその後も交流を続けて翌年の1928年に結婚しました。

結婚と同時期にカリアンドゥシでは、アシュール文化の遺跡を発見して遺跡の発掘を行いました。1929年にセント・ジョンズ・カレッジで研究職を得たことがキッカケとなり、エルメンテイタで発見を整理するためにケンブリッジに戻りました。そして二体の骨格を処理しているときに、その二体のうちのひとつがドイツのハンス・レック教授がタンザニア北部のオルドヴァイ渓谷で発見した物ととても類似していることに気づきました。

以前の1925年にハンス・レック教授とドイツで会ったことがありました。オルドヴァイの地層はとても有名で、1913年にハンス・レック教授は、オルドヴァイの地層から骨格を発掘していました。レック教授は、発掘した骨格を更新世中期、60万年前の物だと主張しましたがそのニュースを聞いた市民のほうでは、このレック教授の発掘した骨格が60万年前のものだといういうことを受け入れる準備ができていませんでした。その当時の一般的な認識は、人類つまり人はそれよりずっと後に創造されたというのが一般的だったからです。1929年にルイス・リーキーはベルリンに行きます。そしてルイスの発見に懐疑的になっていたレック教授と会いました。ルイス・リーキーはレック教授とある賭けをします。それはオルドヴァイで収集したアシュール石器に言及して、オルドヴァイからすぐにでも古代の石器を発見できるいう賭けでした。

ルイス・リーキーは27歳の1930年に博士号を取得して、フリーダとの間に自身の最初の子供となるプリシラが1931年に誕生しています。

そして1931年にルイス・リーキーは、レック教授を含む探検隊をオルドヴァイへと連れて行きました。約束したとおりルイス・リーキーはすぐにアシュール石器を発見ます。そしてレック教授に賭けの勝ち分の10ポンドを要求しました。そして探検隊の一行は、1913年に完全な頭蓋骨の化石人骨を発見した人骨を検証しました。オルドヴァイでは人間以外の化石そして道具が大量に発見されました。そしてルイス・リーキーがオルドヴァイで発見した後にケンブリッジに戻ると、ケンブジッジを支配していた懐疑主義者たちはこの発見に対しても感銘を受けませんでした。そして、レック教授のオルドヴァイ人の証拠を発見するために、ルイス・リーキーは再度アフリカに戻りました。そしてルイス・リーキーは戻ったアフリカで、レック教授が発見したよりも、さらに多くの化石を発見して、発見した地名のカナムにちなみ、「ホモ・カナメンシス」と名付けました。