ルイス・リーキー博士のアフリカ人類発掘の軌跡

私たちが住む宇宙の中にある地球。その地球に生物が誕生したのは40億年前です。その中で多細胞生物に限ってどれぐらい前に誕生したのか?!を見積もると、約10億年ぐらいの歴史があります。進化論が登場する前までは、ヒトはヒトでサルはサルでした。進化論が登場して、サルからヒトへといつ進化したのだろう?!と疑問は当然湧いてきます。そしてもちろん「最初のヒト」を探すための、化石を捜す化石ハンターが続々と登場してきました。ダーウィンはヒトの祖先をアフリカ大陸としていますが、ドイツ人の生物学者のエルンスト・ヘッケルはアジア説を唱えました。人類の起源を巡る論争は、アフリカ説とアジア説に分かれますが1894年にジャワ原人がインドネシアで発見されて、1927年に北京原人が発見されたことでアジア説のほうが優位になりました。

多くの化石ハンターがアジアへ渡る中で、ルイス・リーキーは違いました。アフリカ説を信じて疑うことはなく1929年に石器を発見した以降もアフリカへ通いますが、妻フリーダが妊娠中にスキャンダルを起こして、不遇の時を迎えることになります。

ルイス・リーキー博士のスキャンダル

1930年に博士号を取得して、すでにケンブリッジはもとより執筆活動などで有名だったルイス・リーキーと妻のフリーダは、妻フリーダの持参金でケンブリッジの近くに煉瓦造りの大きな家を買いました。妻のフリーダは妊娠中ということもあって、毎日吐き気に苦しんでいました。そのため、夫ルイス・リーキーの2冊目の本となる「アダムの祖先」のイラストを描くことができませんでした。そこでルイス・リーキーの前にひとりの女性が紹介されることになりました。

新たなロマンス

2冊目の本「アダムの祖先」のイラストを、妻フリーダが描くことができなくなってしまいましたが、王立人類学研究所でルイス・リーキー博士が講演後に、リーキー博士のために開かれた晩餐会で、友人から20歳の若い女性の絵描きメアリー・ニコルを紹介されました。ルイス・リーキー博士は、絵描きというメアリーに「アダムの祖先」のイラストを描いてくれるよう頼みます。そしてこの日から数ヶ月経ち、リーキー博士とメアリーの関係はロマンスに発展していました。

1933年12月にリーキー博士の息子コリンが誕生するとすぐに、リーキー博士は妻フリーダに離婚を申し入れました。ケンブリッジの調査委員が、ルイス・リーキーの振る舞いを全て調べ終わるまでは。と妻のフリーダは離婚することに承諾はしませんでした。この女性スキャンダルで、ルイス・リーキー博士へ研究するための補助金は取り下げられることになりましたが、リーキー博士の母親が新たな発掘調査をするために必要な資金を息子のために十分な資金を集めたことで、無事にルイス・リーキー博士は、1935年にアフリカのカナムとカンジェラに再び渡ることになりました。

この時期は、ルイス・リーキー博士にとっては不遇の時期といえるでしょう。アフリカへ渡るための発掘調査の補助金も取り下げられたりといったこともありましたが、不屈の精神で化石の発掘を諦めることはありませでした。

そして、アフリカへ渡ったルイス・リーキー博士と小さな探索チームには、メアリーも参加していました。この小さな探索チームは、オルドヴァイまで進みました。メアリーは探索チームのメンバーから、当初は批判的な目で見られていましたが、メアリーの持つ技術と能力によって次第に他の参加者たちにも認められていくようになりました。

ルイス・リーキーの両親は「フリーダの元へ戻るように」と息子のルイスに言って、発掘調査のために集めた資金もメアリーにだけはその資金を渡しませんでした。小さな探索チームは、このオルドヴァイ周辺で多くの採掘場所を発見して、将来の発掘の基礎を作りました。そしてルイス・リーキーとメアリーは、マサイ族のために仮設クリニックを設置します。そしてラエトリの予備調査を行ってアフリカのある地域の岩絵を観察して探索調査を終えました。そして再びイギリスに戻ると、ルイス・リーキーとメアリーのふたりは電気もそして暖房もない家で暮らし始めました。この家にはメアリーの親戚しか尋ねてくることはなく、ルイス・リーキー博士は井戸から水を汲んで、そして庭に野菜を植えて飢えをしのいだ生活を送りました。そして再びロンドン王立協会へ訴えることで、収集物を研究するためのほんのわずかな補助金を受け取るという生活でした。

最終的にルイス・リーキーの妻フリーダは離婚に同意します。そしてルリーダとの離婚が成立してから、ルイスとメアリーは1936年クリスマスに結婚しました。この頃の生活はどのようなものだったのかというと、執筆した本からの収入でした。この頃ルイル・リーキーは、独立国家としてのケニアを創立して、初代首相また初代ケニア大統領の座について、キクユ族のジョモ・ケニアッタと激論も交わしています。ルイス博士はキクユ族の中で出会っていた女子割礼に対して、このことに対して明確に反対する態度を講演で話たり反対という明確な姿勢を打ち出していますが、それに対してキクユ族のジョモ・ケニアッタは女子割礼はあるべきものという姿勢だからです。

1937年1月に再びケニヤに渡って、ナイロビ近くのキアンバにルイス・リーキー博士は拠点を置きました。この時に妻メアリーは発掘中に肺炎にかかったため、瀕死の状態でナイロビの病院へかつぎ込まれました。メアリーの体調はかなり深刻だったため、メアリーの母親が呼ばれたほどでしえた。ところが死を誰もが予想していた中で、その予想に反するかたちでメアリーは見事に回復します。そして再び発掘作業に加わり、ンゴロ川洞窟などで発掘を再開しました。ルイス・リーキー博士は、かなり減らされた補助金からこの頃は、以前より多くの補助金を得られるようになっていて、リーキー博士が発掘捜査での発見した内容が再び新聞に載るまでのようになりました。まさに不屈の精神で、減らされた補助金でも諦めずに発掘調査を行い続けたからでしょう。そしてキクユ族と東アフリカへ移民してきた人たちとの間で緊張が高まると、リーキー博士は仲介者としても飛び回りました。そしてリーキ博士は「ケニヤが白人の国だったことはない」といった発言をして、東アフリカへ移民してきた白人達の怒りを買っています。

第二次世界大戦勃発

1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ侵攻したことで、第二次世界大戦がはじまります。そしてイギリスは9月に参戦しました。すると、ケニヤ政府はルイス・リーキー博士を情報部員として徴兵しました。

ルイス・リーキーに最初に与えられた任務は、イタリア軍の侵攻に抵抗するエチオピアのゲリラを支援することでした。ルイス・リーキは自分が育ったキクユ族の幼なじみを頼り、自分の秘密のネットワークを作り上げていきます。そしてそれと同時に、戦争中ということもあって、こっそりと化石探しも地道に続けていました。

ルイス・リーキーは情報部員として、尋問や文書の分析そしてラジオ放送の原稿執筆などに関わりました。夫のルイスが情報部員として働いている間にも、妻のメアリーは発掘調査を続けていました。そして1940年にふたりの間には、ジョナサン・リーキーが生まれました。

妻メアリーはルイス・リーキー博士が無給で名誉館長を務めている「コリンドン記念博物館」(現:ケニヤ国立博物館)働くようなりました。それだけではなく、さらに発掘する場所を広げてルシンガ島とオロゲサイリで発掘場を調査しました。特にオロゲサイリでは、捕虜となっていたイタリア人の中から専門家を仮釈放させて、発掘調査の協力を得ることもしています。1942年までに第二次世界大戦の敵対国イタリアからの脅威は一掃されていましたが、日本軍が偵察するために現れ始めていました。

1944年に後にルイス・リーキーと同じく化石発掘者となる息子のリチャード・リーキーが生まれています。1945年にルイス・リーキーは警察業務で受け取る収入はほとんどない状態でしたが、いまや古人類学者として名声を得ているルイス・リーキー博士には数多くの研究職が提供されようとしていましえたが、ルイス・リーキー博士が選んだのは、今までと同じように古人類学の研究を続けるためにコリンドン博物館に残ることを選びました。

1947年1月にナイロビで、初めてとなる「汎アフリカ先史時代会議」が開催されました。この会議では26カ国から60人にわたる科学者が参加して、リーキー博士の発掘場を見学しました。そしてこの会議で、リーキー博士は、古人類学の中で最重要人物になりました。そしてさらにルイス・リーキー博士は豊富な資金を得ることになり、1948年にヴィクトリア湖のルシンガ島へ発掘調査旅行を行いました。そしてここで、メアリー浮完全な状態の化石る「プロコンスル化石」(霊長目)を発見しました。絶滅した化石霊長類とされていて、現代考えられているのは人類とチンパンジーの共通の祖先だと考えられていますが、もちろん発見された当時は、そのようなことはまだ未解明の状態で、中新世の地層からの化石の発見となりました。

そしてあるスポンサーか資金援助もありました。ルイス・リーキーがヴィクトリア湖で輸送に使うための船を調達する資金を得ることになりました。そしてこの船の有名な船長ハッサン・サリムは、のちにイギリスの動物行動学者で霊長類学者となるジェーン・グドールをゴンベに運びました。1949年にリチャードの弟にあたる息子フィリップ・リーキーが生まれています。1950年にオックスフォード大学から、ルイス・リーキーに対して名誉博士号を与えられています。