植民地からの独立&人類の祖先となる化石の大発見

世界中が驚いた大発見が1959年にあります。この発見には世界中が驚き、この発見でアメリカの月刊誌『ナショナルジオグラフィック』を発行している「ナショナルジオグラフィック協会」からの資金提供も受けることになりました。世界中が驚いた大発見は1959年の「ジンジャントロプス」です。この発見からリーキー博士によるさらなる研究が重ねられたことは言うまでもありませんが、この発見に世界中が驚きました。

ケニヤ情勢とリーキー夫妻

ヴィクトリア湖でリーキー夫妻が発掘調査をしている間に、キクユ族とヨーロッパ移民との間はますます対立が深まっていました。ヨーロッパ移民の方が優勢の状態で、移民側は「白い」アフリカのそして「白人の」政府を要求していました。一方で白い政府を要求している3万人の移民と、100万人のキクユ族は3万人の移民たちの行動に悩まされていました。

キクユ族も行動を起こします。1949年にケニア土地自由軍を結成します。(イギリス側はマウマウ団と呼ぶ)そしてケニア土地自由軍は、ヨーロッパ移民とヨーロッパ移民体制派に属するキクユ族を攻撃しました。ルイス・リーキー博士は、植民地政府のフィリップ・ミッチェルに警告をしましたが、警告は無視されました。ルイス・リーキー博士自身の命も危険にさらされることになり、自衛のためのピストルを持ち歩くようになりました。そしてケニヤ政府は、24時間の警備をルイス・リーキー博士の元置きました。

1952年に政府が後のケニア初代大統領となるジョモ・ケニヤッタを逮捕すると、ルイス・リーキー博士は裁判で通訳をつとめましたが、被告への偏見に基づく誤訳が指摘されたことで、その通訳を退くことになりました。政府はイギリス軍を呼び込んで2万人のキクユ義勇兵を組織しました。ルイス・リーキー博士はというと、ヨーロッパ移民に味方していました。そしてスポークスマンとなり、また情報将校となって、ゲリラの発見を助けました。その一方で、自身の著作そして執筆活動また会談を通して、キクユ族を擁護しました。

多民族政府と農地改革、またキクユ族の受けとる収入の底上げといった、さまざまな改革を提案していき、最終的にリーキー博士の改革案のほとんどが採用されています。この提案の後で、多くのキクユ人が教育キャンプに入れられて、新しい村へと移住しました。この反乱は1956年まで続いたため、非常事態は1960年まで継続されることになりました。そしてケニヤは1963年に、ジョモ・ケニヤッタを首相としてケニヤは独立して、ジョモ・ケニヤッタは建国の父となり、ナイロビにあるジョモ・ケニヤッタ国際空港は彼の名にちなんで名付けられています。

大発見

1951年にリーキー夫妻は、オルドヴァイで道具を発見したことをきっかけに翌年1952年には、さらにより広範囲にわたる発掘が行われました。そしてその発掘で、後に「オルドヴァイ屠殺場」と呼ばれる動物が追い込まれて大量に殺された古代の沼だった遺跡が発見されました。1953年にリーキー夫妻一行の発掘隊は、一度発掘を止めますが1955年から再び発掘を開始しました。そして1959年にメアリーは「ジンジャントロプス」という化石人類を発見しました。「ジンジャントロプス」の発見は、ロバート・ブルームによって発見されたパラントロプスよりも前の人類化石なのか、それとも後なのか、そしてどのように人間の系統に連なるかどうか?!というものでした。

そして「ジンジャントロプス」は発見された翌年1960年に、地球物理学者ジャック・エバンデンとガーニス・カーティスにようって、この人類化石を175万年前の物と判断しました。この年代は、想像した時代よりも遥かに古いもので、この発見に世界中が驚きました。そしてこの発見の知らせを聞いて科学者たちはアフリカに群がりました。リーキー博士とレック教授の正当性はこれで完全に証明されたことになりましたが、レック博士は、これより前の1937年に亡くなっていたため、今まで説をオルドヴァイ遺跡のニュースを知ることはありませんでした。リーキー博士は自身が信じていた、ダーウィンの進化論が正しかったこともこの発見で証明することになりました。

リーキー博士は博物館の館長としての責務があるため、週末以外は離れることができなかったため、1960年にオルドヴァイの発掘責任者に妻のメアリーを任命しました。メアリーは19歳の息子ジョナサンと、キャンプを設置しました。そしてメアリーは自分自身のスタッフをそろえて、夫であるリーキー博士とはラジオで連絡を取り合いました。そしてリーキー博士は、週末になると高速でオルドヴァイを訪れ、その距離はナイロビからオルドヴァイの間の500kmを行き来することになりました。まだ10代前半だった他の息子の、リチャードとフィリップは長期休暇の時だけオルドヴァイ発掘場を訪れました。

リーキー博士が古人類学から手を引く前に、息子のジョナサンはちょっとした名声を獲得しました。それは、自分自身で採掘場所を見つけて、そこでアウストラロピテクスの矢状突起のない二つの頭骨片を発見したことです。息子の発見した頭蓋片を見て、メアリーはそれをブルームとロビンソンのテラントロプスと結び付けました。そして問題は「ジンジャントロプス」との時代関係でした。手紙で写真を受け取ったル・グロ・クラークは、ピルトダウン人との関係をほのめかしましたが、リーキー博士はすぐに返信して、いくらかのやりとりの後でクラークは自分の説を謝罪しました。

1960年にリーキー博士と息子フィリップ、そしてレイ・ピッカーリングはオルドヴァイの道具と関連した新たな化石を発見して、この化石を「シェランマン」と呼びました。その後「シェランマン」は、ホモ・エレクトゥスに含まれたが、パラントロプスと同時代の物でした。長い間、リーキー博士はエレクトゥスが道具を使用していたけれども、アウストラロピテクスは道具を使用していないと考えていました。現在はどちらも道具を使っていたと考えられています。

そして1961年に、ナショナルジオグラフィックから補助金と給与を受け取ることになり、コリンドン博物館の役職を部下に譲りました。そして敷地内に先史時代と古生物に関するセンターを作って、自分のコレクションを移し責任者に就任しました。そしてそれだけではなく、さらにヴィクトリア湖の近くで新たな発掘地を見つけ、そこでケニヤンピテクスをヘゼロンが発見しました。リーキーはちょうど滞在していたアメリカの古生物学者ジョージ・ゲイロード・シンプソンと一緒にその発見を祝いました。

ケニアの独立と夫婦の対立

ジョモ・ケニヤッタがケニヤの首相となり、1963年12月12日にケニアは独立しました。この独立の前に、かなり相当な数の移民がケニヤから出国していました。ケニヤッタは白人に対して懐柔的な立場を取り、いくつかの追放はありましたが、報復などはありませでした。リーキー博士は、植民地から独立国家へなったことで古人類学の将来はどうなるのか?!と心配を抱いていましたが、最後の植民地知事の仲介もあり、ケニヤッタ首相とリーキー博士の会談が行われました。このふたりの会議は友好的なうちに終わり、リーキー博士の研究は保証されることになりました。

そしてリーキー博士は晩年は、発掘の作業から離れてアメリカとイギリスで著名な講演家となりました。関節炎で体が不自由になったこともありますが、リーキー博士の役割は資金を集めることと、発掘作業をする家族を指揮すること、そしてケニヤで化石研究を行おうとしている研究者の手助けをしました。リーキー博士の許可無しで発掘許可は下りずに、博物館のコレクションにも、もちろん触れることもできませんでした。

ケニヤが独立した1963年頃、ルイス・リーキー博士と妻メアリーとの間はすでに崩壊しています。メアリーはもはや夫のルイス・リーキーに対して敬意を払うことはなくなり、1963年頃には夫のことを役立たずとさえ見なすようになっていました。そしてメアリー自身も専門家として、夫リーキー博士が手伝っている研究家のルースが発見したカリコ人に関する議論を反対し始めています。メアリーはナショナルジオグラフィック協会を説得して、カリコ人に関する出版を止めさせるだけではなく、資金提供までも打ち切らせました。ところが、リーキー博士も黙ってはいません。他の手段を見つけ、何人かの著名なカリフォルニア市民の協力を得る形でリーキー財団を立ち上げました。この財団設立以降、リーキー博士は資金を調達するために、もはや妻ではなく彼らとともに働くことになります。

メアリーの強靭なリーキー博士に反対する姿勢は、古人類学のコミュニティの大きな分裂にまで繋がりました。例えば1968年にリーキー博士は、南アフリカ共和国の政策アパルトヘイトを理由に、ヨハネスブルクのヴィトヴァーテルスラント大学からの名誉博士号を拒否していますが、逆にメアリーは名誉博士号を受け入れるといった具合にです。お互い古人類学の専門家として、別々の異なる道を歩き始めていました。

そして2~3年の間にリーキー博士の健康は、一気に衰えていきます。まず心臓発作で倒れたため、半年間を病院で過ごし最初は対抗しましたが、息子のリチャードに地位を明け渡しました。心臓疾患を抱えていただけではなく、脳卒中にもかかっていて健康面でかなり弱っていたうえに、妻メアリーと学術面で対立するカリコ人を巡る論争にも関与していたため、精神的にもかなり負担となりました。メ

1972年10月1日にリーキー博士は、ロンドンのヴィエンヌ・グドールのアパートで心臓発作を起こし、そのままセントスティーブンス病院で死去しました。メアリーはリーキー博士を火葬にして、ナイロビで灰をまくつもりでしてが、父の後を継いだ形の息子リチャードはメアリーが火葬しようとしていたことにすぐに介入します。父はキクユ人でキクユに埋められるべきだと主張したため、結局ルイス・リーキー博士の遺体はロンドンから輸送されて、ケニヤのリムルにある彼の両親の墓の近くに埋葬されました。